この本は、立川談志に弟子入りした談春が、二ツ目を経てやがて真打になるまでの成長記です。今回は、「赤めだか」から心に響いた言葉をいくつか紹介します。
「赤めだか」から立川談志の言葉
つまり、盗めるようになるには
教えた通りを覚える。一方で、覚えただけでは出来るというだけで、芸とは言えない。
では、芸となるまでには何が求められるのだろうか?
芸と言えば、濡木痴夢男氏の著作「緊縛★命あるかぎり」のなかで「縛る前の会話」「適当に笑わせる」「縛るまでの呼吸と間合い」を氏は一つの「芸」だと書いています。
ここで、芸論を持ち出すつもりはないのですが、「縄筋を覚えた」だけでは「しゃべれる」と同様、他者を笑わせたり、楽しませるといった域にないのは明白です。
この言葉には深い意味が込められています。まずは基礎をしっかりと学び、その上で自分のものにしていくプロセスが大切だということです。
縄筋を覚えるのは、第一段階
「赤めだか」には次のようにも書かれています。
やはり、そんなものなんですね。どんな世界も。
若いうちは記憶力も良いので、納得です。
さて、いろいろ見て回っていたら、こんな本に出会いました。
「まるごと三味線の本」に学ぶ
三味線に関する書籍「まるごと三味線の本」では、次のように述べられています。
三味線での「構え」を緊縛に置き換えると、「縄筋を覚える」ということでしょう。多少は苦労しますが比較的やさしいと思います。そこから次の段階(第二段階)として師匠(講師)の技をそっくり真似するというのは確かに難しいことです。
さらに、盗めるようになるにはキャリアが必要だし、時間がかかるということになります。これは言うなれば第三段階が「盗む」段階なのかなと思います。
指遣いの技術と流れ
さらに「まるごと三味線の本」からの引用です。
この「音と音がつながらない」ということと似たようなことが、緊縛においては留めと留めがつながらない、あるいは(名前がついているような)「なになに縛り」と「なになに縛り」がつながらないみたいな、「流れ」を重視した感覚と同じなのかなと感じます。
「指の軌跡」と言われる、流れのようなもの、つまり個々の技術の習得だけでなく、その技術をどのように流れに組み込むかが重要ということのようです。
自力での工夫
冒頭で「まるごと三味線の本」から引用した「自分で気づくというアクティブさがないと、教えてもらったことを自分に応用できない」
どのレベル(プロ、ハイアマ、アマ)になりたいかという目標設定もありますが、ひとつの技術に対し自力で意味を与え、新しく工夫する能力こそが、面白さであり、上達に必須と感じています。
最初は詳細な手順や方法を学び、次にプロセス全体を模倣(手順を忠実に再現)することから始まり、その後、結果を模倣する段階に進むことで、さらなる自由度を持つことになっていくということが芸と呼べる域なのではないか。
次回は、このあたりをさらに深堀りしたいと思います。
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